ツイッターに祈りを
何かどこぞのバイトが、勤務中の不謹慎な行動を収めた写真をツイッターにアップして炎上とか、そういう系の話が相次いだことで、盆休みで暇はあるのにネタがない肉食系ブロガーがここぞとばかりに大集合、口々にDQN社会学みたいなものを開陳している昨今である。いや、まあ私もそうなんだが。
この件、夏休み特有の浮ついた感じが、若者を不謹慎に駆り立てるのは昔からよくあることながら、どうにも結果だけが極端になってる感じは、確かにある。そう。最近はやりの極端気象である。夕立ではない。ゲリラ豪雨なのだ。
若者たちの不謹慎は、内輪でだけでなら、それこそ内輪ネタで済んだ話だろうし、立場的に程近い場所に居る「オトナ」に見つかっても、厳重注意というかお説教という感じだったと思う。ただこれ、「社会」とか「ソーシャル」にイキナリ見つかっちゃうと、やっぱりゲリラ豪雨みたいになっちゃうんであるな。やむなし。
これについて、まあそれもどうなのっていう感じではあるのだけど、若者たちのメディアリテラシーの問題に帰結させる論調も、少なからずある。
要するに、ツイッターにうpするというのは、どういうことなのかと。その投稿は、世界中の人に見られても本当に大丈夫なものなのかと。そういうことをちゃんと考えてからメディア利用しようねと。そういう方向性。
で、それもどうなのっていうのはつまり、それって結局ツイッターにアップするのはやめれ≒隠れてやれってことじゃないのという気がしなくもないという意味なんだが、ただこれも、すべての事象が必然的にインターネットに公開されてしまうサトラレ的近未来を前提にしてみると見え方が変わってくる。変える必要があるのか知らないが。
なんというか、ちょっと伝統的な宗教観に限りなく近づくというか、つまり、ツイッタ民は常にアナタのオコナイを見ています、みたいな感じになる。
そして、ツイッタ民は炎上ネタを決して見逃しません、みたいな。
従って、ツイッタ民に祈りを捧げて、アカウントの救済を待ちましょう、みたいな。
いやまあ、それこそどうなのって話だが。